第三の被爆県

第三の被爆県

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 こんにちは!Care Inter national Japan Youth Project3期メンバー静岡県在住の高校2年能見日菜です。

私は普段、海外の過酷な労働環境を少しでも改善しようとフェアトレードを普及したり、戦争を二度と起こさせないために、平和活動を行ったりしています。

「被爆県は広島・長崎だけではなかったのか?」「第三の被爆県ってどこだ?」この題名を見てこう疑問に思った方も多いと思います。私の居住地から予想ができるかもしれませんが、広島、長崎に次いで静岡県は第三の被爆県と言われているのです。しかし、この事実を知らない人があまりにも多いのです。今日は静岡で何が起こったのか話していきたいと思います。

~静岡県民ではない方も興味を持っていただければ幸いです~

1.認知度の低さ

ビキニ事件を知っていますか?」

こう質問した時、恐らくほとんどの方が知らないと答えるでしょう。 ービキニ事件ー それは後に静岡県を第三の被爆県とも呼ぶようになった恐ろしい事件である。たった66年前の出来事なのに、その悲惨な事件を知らない高校生が多いどころか、事件が起こった静岡県焼津市から通うクラスメートでさえ知らない様子だった。

2.ビキニ事件とは   

1954年3月1日3時42分マーシャル諸島近海でマグロ漁をしていた第五福竜丸に突然明るい光が降り注いだ。船員は初め、その光の正体が何か分からなかった。アメリカ軍によってビキニ環礁で行われた水爆実験に遭遇し、放射性降下物に被爆したのだった。延縄の収容に時間がかかり、船員23名は数時間にわたって降灰を受け続けながら作業をつづけた。

3.犠牲者 久保山愛吉

事件後、家に帰宅した無線長の久保山愛吉は真っ黒でいつもより明るさに欠けていた。火傷、頭痛、吐き気、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛などの症状はあったものの、この時はまだ“死”というものをあまり考えていなかった。久保山を含めた船員23名はこの後、放射線による恐ろしい病に苦しむことになる。

久保山は被爆による「急性汎骨髄ろう」と診断され、入院。黄疸が悪化していく。約半年後、売血輸血による肝炎ウイルスによって亡くなった。治療中の死亡は彼のみであった。

原水爆の犠牲者は私を最後にしてほしい”久保山はこの言葉を遺した。

4.ビキニ事件のその後

ビキニ事件後、原水爆禁止運動が盛んになり、各地で署名活動などが行われた。現在でも、全国の高校生平和大使を中心に核兵器廃絶を目指し、「高校生1万人署名活動」が行われている。被爆した第五福竜丸は、江東区夢の島に展示され、事件の起こった焼津には資料館があり、事件の恐ろしさを物語っている。

5.終わりに

終戦から長い年月が経ち、戦争体験者の方も少なくなってきた。

そんな中、私たち中高生は、戦争体験者からのお話を伺える最後の世代と言われている。私たちは実際に戦争を体験したわけではなく、微力である。しかし、無力ではない。後世に戦争の恐ろしさを伝え続け、戦争が起きない国を守り続けなければならないのだ。

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